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寄稿文のご紹介

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2021/08/18
寄稿文のご紹介


『いのちとリスクの哲学ー病災害の世界をしなかやかに生き抜くために』(MYU)などの著作で、ゼロリスク思考や予防原則の自明性に対して疑問を呈する論考を発表している哲学者・一ノ瀬正樹先生(武蔵野大学教授・東京大学名誉教授)から、スケジュールの都合でシンポジウムにご登壇いただけない代わりに、ご寄稿をいただきました。
ぜひご一読くださいましたら幸いです。



「見ること」と「見ないこと」の同時性

-新型コロナ感染症問題についての哲学的覚え書き-

 

                               一ノ瀬 正樹

 

哲学的思考の基礎

 人間が何かを本当に把握していると思うことは傲慢である。これが、ソクラテス以来、「哲学」という領域を根底から導くスピリットである。このことは、「見る」という基本的な行為において跡づけることができる。大海原を航海している船に操縦士として乗船していると想定してほしい。操舵室から前方を見る。別の大型船が遠方からこちらに向かってくることが確認できる。まだ距離があるので、安全にすれ違う準備をするいとまはあるだろう。けれども、こうした確認だけで、自船を取り巻く現状を十全に把握したとは言えない。後方から、頭上から、海底から、何が近づいているかは分からない。というより、前方を目視しているときには、そうした他方向は「見ない」のである。見ることができないのである。レーダーなどを使用して「見る」範囲を拡張しても、見えない部分が存在するという構図は依然として同様である。

 そうなのである、「見る」ということは、ある対象を見るということであって、そのように見ているときは、対象としているもの以外については見てないのである。「見ること」がある対象を見ることを選択する行為であるとするならば、「見ること」は、定義的かつ宿命的に、それ以外のものについて「見ないこと」を同時に選択しているのである[1]。何かを人為的に切り出して対象化すること、それが「見ること」なのであり、それは、世界をありのままにではなく、どこかにスポットライトを当てた形で描き出すことにほかならず、逆に言えば、それは同時に、スポットライトを当てない部分を「見ない」領域として位置づけている行為なのである。「見ること」と「見ないこと」の同時性である。このことは、量子力学で言うところの「不確定性関係」などにおいて確証できるかもしれない。電子などのミクロの対象を見るとき、光りを当てねばならないが、光(光子)を当てることによって当該対象の運動量が変化してしまい、本来確認しようとしていた対象の本当のありようは不確定なものになる、とするあの有名な考え方である。それは、「見ること」が世界に対する人為的介入であり、それによって、本来確認したかった対象の(見られていないときの)真の状態を見ないことになってしまう、あるいは、見えないものにしてしまう、と捉え返すことができるからである。

 そしてこのことは、「見ること」が人間が世界を理解することのいわば雛形と捉えられる以上、私たちの世界理解は根源的に、何かを射程に入れずに考慮しないことを含意している。すなわち、何かを理解していることは、別のことを理解していない、ということである。人間の認識や知識を考えるとき、こうした事情は決定的に本質的である。私は、これを人間の知的活動の欠陥として申し立てているのではない。そうではなく、そもそも人間の言語や知覚能力を用いた理解というのは、その抜きがたい不可避の定めとして、理解しないことを同時に伴っているのだということ、それゆえ、その宿命をつねに考慮に入れて事態を受け取りそして事態への対応をすべきだと、そう注記したいのである。

 

大震災と原発事故の教訓

 この10年、私たちは二度の大きな病災害を経験した。大震災・原発事故と新型コロナ感染症問題である。その二つについて、私は、哲学研究者の立場から、「見ること」と「見ないこと」の同時性が社会的にうまく消化されておらず、それゆえに不要な混乱に陥ってしまっているのではないか、いや、それどころが重大な害を被ることになってしまっているのではないか、という懸念を感じていたし、実際そうした懸念が不幸にも現実化もしてしまった。

 一つには、津波震災と原発事故後の「見ること」の片寄りにそうした懸念が顕在化してしまった。人々は、原発事故による放射性物質拡散と放射線被曝を「見ること」になによりも傾注しがちとなり、それ以外の困難性を「見ないこと」を選んでしまったように思われる。放射線被曝は、被曝線量が多ければ間違いなく危険である。放射線被曝が安全などと述べる専門家は皆無であろう。けれども、それはあくまで「量」による。宇宙中に放射線が飛び交っているのが私たちの環境のデフォルトである以上、それどころか人体そのものが放射性物質であるという事実に照らす以上、量が少ない放射線に一喜一憂する必要はない。一喜一憂するべきかどうかを判別するのに人類が編み出したのが「シーベルト」という単位である(あくまで「実効線量」のシーベルト)。まずは事実を測定し、シーベルトという単位に照らして判断し、対応していけばよい。それをせず、放射線被曝だけを「見ること」を選択してしまうと、たとえば震災関連死などの悲劇を「見ないこと」になってしまい、事態の把握としてはきわめて不全なものとなってしまう。人は放射線被曝だけによって亡くなるのではない、避難行動などの過酷さによっても心身のバランスを崩したり、「いのち」を失ったりするのである[2]

 実際、2011年の原発事故において放射線障害で亡くなった方は誰もいない。それほどの高線量の放射線被曝は発生しなかったからである。それに対して、たとえば福島県での震災関連死は、津波震災による直接死よりもはるかに多い。過酷な避難行動や避難生活が大きな影響を与えてしまったのだ。しかし、放射線被曝だけを「見ること」によって、こうした真の悲劇は「見ないこと」にされがちになってしまう、いや、単に「見ない」だけではない、放射線被曝の過剰危険視が過酷な避難行動を促す背景になったと考えられる以上、放射線被曝だけを「見ること」が、関連死増大を招く要因になったと捉えるべきであるとさえ言える。そういう意味で、避難行動の過酷さを「見ないこと」は、いや、それどころか、「見ないこと」を(放射線被曝の害こそが他の害よりもなによりも特別糾弾されるべきだとして)正当化しようとするのは、道徳的に重大な問題がある。放射線被曝の害を訴える人々のもともとの意図に反して、かえって「いのちの軽視」の誹りを受けることになってしまいうる。いずれにせよ、津波震災や原発事故は今後もほぼ必ずと言ってよいほど起こってしまうだろう。私たちは、福島原発事故から教訓を学び、後世に伝えていかなければならない。

 

コロナ問題のファクト

 似たことがコロナ問題についても発生していないか。新型コロナ感染症、covid-19の流行は、たしかに悲劇であった。令和38月の段階では、統計の取り方にもよるが、世界で4百万人以上の死者をもたらしてしまった。しかし、ここで「見ること」が「見ないこと」と同時性を持つことを想起したい。そもそも、当たり前のことだが、毎年のように人々は亡くなっている。日本だけでも、コロナ問題以前から、毎年100万人以上の方々が亡くなっている。それに対して、日本でのコロナ感染症の死者数は、2020年から20218月までの18カ月で15000人超といった辺りである。2019年のデータからすると、日本でのがん死は約38万人、誤嚥性肺炎を含む肺炎死は約14万人、事故死は約4万人である[3]。また、しばしば指摘されているように、2020年の日本の死亡者数の合計は、コロナ問題発生以前の2019年における日本での死亡者数よりおよそ9000人少なかった[4]。コロナ問題が発生することによって、かえって全体の死者数が減ったというのである。自粛のある程度の浸透によって、そしてたぶんウイルス干渉現象によって、肺炎や通常のインフルエンザに罹って亡くなる方が減ったからであろう。

 しかし、コロナ感染症に関わる医療逼迫や、病状の詳細についてのメディア報道を見る限り、このようなデータによって立証されている事実は認識されにくい。とてつもない死者が山積されているかのような理解をする方々が発生しても不思議ではない。これは、まさしくコロナ感染症を「見ること」が、全体の中での位置付けや量的評価を「見ないこと」につながってしまう典型的現象である。まずは冷静になって、コロナ感染症問題を「見ること」と同時に発生している「見ないこと」にも意識を向けて、そこを追求していく誠実な態度が求められている。それをせずに、covid-19の恐ろしさだけに思考を集中させてしまうと、別の弊害が見逃されてしまい、かえってより大きな害を招いてしまいうる。実際、すでに公表されているデータからして、2020年末ぐらいから完全失業者数の数が増大してきているし[5]2019年と2020年の自殺者数を比較したとき、コロナ問題が発生した2020年の自殺者数は増えている[6]。また、実はメディアでしばしば報道されていることだが、病院がコロナ患者の受け入れに傾注するあまり、他の医療行為にしわ寄せが来ている事実もきちんと見据えなければならない。がん手術、交通事故などでの負傷者への対応など、病院には多様な社会的責務がある。しかし、コロナ患者の対応にスペースやマンパワーが割かれると、そうした他の業務に十分に力を注ぐことができず、がん患者や負傷者などが割を食ってしまう。まずは、これらのファクトを確認することが第一歩であろう。

 こうした事実を確認した上で、これらも含めてすべてコロナ感染症のせいなのだ、と言い切ってしまうのは、間違いとは言えないが、やや乱暴にすぎる。もうすこし現象を絞って考えなければ、分析として説得性を持ちえない。おそらく、こうした弊害の原因は、コロナ問題発生「以後」の社会にあり方、すなわち、自粛要請とそれに伴う経済や人々の心身への負のインパクトにあると考えるのが常識的な捉え方であろう。そのとき考えるべきは、本当に行動制限や飲食店への開店時間制限などが必要だったのだろうか、もっと他のやり方はなかったのだろうか、と問うことによる遡及的なシミュレーションである。哲学では、こうした思考法は反事実的条件分析などと言う。こうした分析に沿って、コロナ感染症の重症化率や致死率などの解析、そして自粛要請などの効果などのデータを緻密に検討して、今後しばらくは続くであろうコロナ問題に対する適切解を求めていかなければならない。放射線被曝の場合と同様に、人はcovid-19によってのみ亡くなるのではない。covid-19に罹患しなくても困窮やメンタル的不調のゆえに自死に追い込まれてしまっては元も子もない。コロナ問題だけを「見ること」によって隠蔽されがちな「見ないこと」にも意識を向けて、それを「見ること」を果たしていかなければならない。リスクというのは天秤のようなもので、一方を軽くすると他方が重くなる。両にらみで行くしかない。

 しかし同時に、いわば振り子の揺らぎのように、逆のことも言える。コロナ感染症を「見ること」によって隠蔽されがちの「見ないこと」、すなわち困窮やメンタル不調や自死増加や他の医療業務の不全など、をかえって逆顕在化させて、コロナ感染症は他の疾病などと比べて大したことはない、むしろコロナ問題で大騒ぎすることは一層重大な弊害をもたらす、と言い切ってしまうとするなら、実際にコロナ感染症で苦しみ亡くなってしまった個々の方々の、そしてその関係者の方々の、苦悩の想いを「見ないこと」になってしまう可能性がある。今回のcovid-19の問題は、「見ること」と「見ないこと」にまつわる問題性に絡め取られているという点で10年前の放射線被曝問題と似てはいるが、異なっている点もある。それは、福島原発事故では直接的な放射線障害による死者は発生しなかったが、今回のコロナ感染症問題においては直接の死者が、毎年の統計からしてさほどの数ではないとしても、それなりの数発生しているという点である。死者数が少ないということは、各々の死が悲惨ではないということを決して意味しない。発症数が数えるほどしかない、きわめて珍しい難病に罹患して亡くなる人のことを想起してほしい。そこに発生した恐怖と悲哀を想像するならば、やはり、全体の死者数とはかかわりなく、個々の死は重いということが伝わってくる。もしコロナ感染症は風邪の一つで、大げさに騒ぐ必要はない、とだけ言い切ってしまい、その後のフォロウがないとするなら、「見ること」と「見ないこと」の中身が逆転しただけで、実際にコロナ感染症となって苦しむ人々のありようを「見ないこと」になりかねない。どんな場合でも、やはり、「見ること」と「見ないこと」の同時性に対する意識が求められている。

 

トリアージをめぐる言説

 同様な観点から、以下二つの案件について付け加えよう。一つは、「トリアージ」の問題である。トリアージとは、災害や医療資源逼迫の状況の中で、すべての被害者や患者に医療サービスを平等に与えることができないとき、医療サービスを適用する順序づけをすることをいう。「選別」である。トリアージには多義性があるが、ここでは災害現場で適用されるトリアージを雛形とするものを論じよう。福知山線脱線事故の際のトリアージが、典型的な例となる。そうしたトリアージの場合、大抵は、色別のタグを付けたりして、優先順位を示す。軽度な症状の人々は後回しにされる。医療措置を加えなければ落命の恐れがあるが、医療サービスを加えることで救命できる人々が最も優先される。そして、医療サービスを加えても救命の可能性がないと判断される人々も後回しになる。一般的に言うならば、こうしたトリアージの措置は「最大多数の最大幸福」のスローガンに象徴される「功利主義」(私は語感による誤解を避けるため「大福主義」と呼んでいる)の考えに対応している。「大福主義」は社会全体の幸福を基準とする考えだが(個人の幸福を基準にする「利己主義」と混同してはいけない)、倫理学の歴史においては、個人の権利尊重や尊厳を基準とする「義務論」と対比される。

 このようなトリアージは災害現場だけでなく、コロナ感染症に関しても話題となった。すなわち、重症化して、人工呼吸器やECMOなどを必要とする患者が多数病院に運び込まれて、人工呼吸器やECMOを全員に同時に装着できなくなった場合、やむをえず順序づけ、すなわちトリアージをしなければならなくなる。こうした場合、救命可能性を基準としてトリアージを行うのが基本だが、実際は、年齢によるトリアージが行われざるをえないのではないかと思われる。高齢者は後回し、というやり方である。緊急的な状況の中では、救命可能性を真に診断するのは厳密には難しいだろうし、実際問題として、高齢者が概して救命可能性が少ない、すなわち、体力や免疫力という面で若者よりも脆弱である、ということは平均的には言えるだろうからである。

 このトリアージに関して、高齢者を後回しにするのは高齢者差別ではないか、高齢者に対する人権侵害ではないか、とする異論が提起されることがある。ある意味で、当然の反応かもしれない。高齢者ご自身からすれば、当事者として一種の恐怖感を感じるのも自然であろう。けれども、ここでも「見ること」と「見ないこと」の同時性を想起しなければならない。高齢者の人権を最高度に尊重して、救命可能性などを勘案せず、運び込まれてきた患者が高齢者であっても、到着順に医療サービスを提供していたならば、後から運び込まれてきた若者の患者、すなわち医療措置を受ければ救命される率は高いが、そうでなければ落命の恐れがある患者は、どうなるだろうか。瞬く間に重症化して落命していってしまう恐れがあるのではないか。つまり、高齢者のような、トリアージにおいて優先順位が低く見積もられる患者の人権を「見ること」は、その他の患者の人権を「見ないこと」に直結しうるのである。これは、冷静に言って、公平ではない。

 

予防文脈と危機文脈、そして人権の制限

 おそらく、人権思想に訴えることによってトリアージ実施に反対する人たちの考え方の根底には、トリアージは行ってはならないので、トリアージをしないてですむように、あらかじめ医療体制を整えておくべきだ、とする見方があるように思われる。これは、それ自体としては、たぶん誰も反対しない。医療体制を整え、医療装置も十全に準備しておくことは、予算が許す限り、正義に見合った社会政策である。私はこうした議論をする文脈を「予防文脈」と呼んでいる。けれども、こうした予防文脈は、万全を尽くしたけれども、もはや順序づけをしなければかえって被害が拡大してしまう、という緊急的な事態になった場合にどうするのか、ということに対する議論を欠いている。予防文脈に立つ論者は、そうした緊急的な事態は発生しない、と考えているのだろうか。私は、こうした緊急的な事態を論じる文脈、すなわちトリアージを考慮する文脈を「危機文脈」と呼ぶ。すなわち、トリアージに反対する議論は「予防文脈」に立つ議論であって、それは「危機文脈」に対しては何も論じていない、両文脈は別物である、と考えている。

 結局、人権尊重の思想というのは、そうした尊重をすることで他者の人権に害を及ぼさないときに成立する考え方なのであって、複数の人々の人権尊重が競合する場合には、思想それ自体としては破綻してしまうのである。誤解を恐れず言うならば、私たちは各個人の人権を尊重すべきであるが、状況によっては、ある種の人権制約(場合によっては人権侵害)は許容されなければならない、ということである。しかし、人権思想の議論を素朴に受け取る限り、人権制約や人権侵害を許容する場面など、おそらく整合的に取り込むことは困難であろう。基本的人権の尊重を旨とする「日本国憲法」第13条に現れる「公共の福祉に反しない限り」という文言は、こうしたデリケートで、本来ならば微妙に自己破綻的な事情を反映している。

 私自身は、平時において人権尊重を求めることは決定的に大切なことであると感じる。たとえば、子どもの虐待など、決してあってはならないと強く信じる。しかし同時に、病災害の緊急事態においては、人権尊重だけを謳ったならば事態はかえって悪化していってしまうことがありうる、とも感じる。ということは、つまり、人権尊重の思想は、「もし他者に害を及ぼさないならば」という条件の下での、仮言的思想であると認識すべきか、それとも、きっぱりと人権思想でない思想に切り替えるか、いずれしかないと理論的には言えるのではないか。おそらく、権利主張は他者がそれを容認する義務を受け入れることによって成立するという、古典的な「権利と義務の相関性」の考え方からするならば、人権思想を仮言的思想として受け入れる、というのが正道であろう。実はこうした議論は、少し冷静に考えれば、たとえば「言論の自由」なる人権が無制限に認められるはずもない(他者への誹謗中傷などを自由にしてよいことにならない)ことを想起するとき、あまりに当たり前のテキスト的記述にすぎないことが直ちに了解される。しかし、なぜか、トリアージに対して人権尊重を持ち出して反対する、という議論においては、この当然の「権利と義務の相関性」を「見ないこと」が発生してしまっているように思われるので、あえて改めて確認のため論じた次第である[7]

 むろん、このように論じて、トリアージは仕方ないのです、後回しにされた人は諦めてください、と突き放したのでは、逆に、後回しにされた人々の感覚を「見ないこと」にもなりかねない。先ほども触れた、「見ること」と「見ないこと」の中身が逆転しただけの、「見ること」と「見ないこと」の同時性への忘却である。では、どうしたらよいのだろうか。ここでは詳述しないが、私の考えでは、大福主義や義務論とは少し異なる倫理を構築することで、ある種の解決の発端を見いだせるかもしれないと考えている。それは「物体性を伴う倫理」と暫定的に呼称されうる考え方である。この点は、拙著の一ノ瀬(2021)の「あとがき」、そして近刊予定の『病災害の中のしあわせ』の中の私の執筆担当章「自然災害感染症に立ち向かう倫理-大震災とコロナ感染症の中での「しあわせ」は成り立つか-」を参照していただきたい。いずれにせよ、どのような局面においても、「見ること」と「見ないこと」の同時性への顧慮は、誠実な対応を取るためには不可欠であると述べておきたい。

 

東京オリンピックと感染者増大

 最後に、私の哲学研究上の主題である「因果関係」についても、「見ること」と「見ないこと」の同時性に絡めて、一点触れておきたい。ご承知のように、令和37月末より東京オリンピックが開催されたが、それと軌を一にするかのように、全国の新型コロナウイルス感染者が増えていった。そうした中で出てきた考え方が、「東京オリンピック開催が原因となってコロナ感染者が増えた」とする因果関係の主張である。中でも、最も強い主張は、オリンピック開催がコロナ感染者増大の直接的原因である、というものである。しかしさすがに、オリンピック開催前から感染者の爆発的増加現象は発生していたし、しかもオリンピックは無観客で開催されたので、オリンピックが直接的に感染者増をもたらしたというのは主張しにくいと考えられたのか、そうした直接的な因果関係ではなく、オリンピックという華々しいイベントを国として行っているのだから、なんとなしに人々の心も華やいで、外出を動機づけてしまい、その結果感染者増となった、だからオリンピックが感染者増の原因なのだ、という主張がおもに展開されるに至った。このとき、たとえば野外で開催されたマラソン競技などの場合、結局は沿道に多くの人々が応援に集まり、密状態になっていたことも感染者増大の原因として言及されたりもしていた(もっとも、冷静に言って、その程度の密状態は他のイベントでもざらに発生していたので、そうした他の事態との相対化の思考は必要だろう)。

 なにより因果論を研究してきた研究者として述べておきたいのは、ある現象の原因を特定するというのは、かなり複雑な営みであり一発で断定することはできないこと、というよりむしろ、原因指定というのは実は規範的な価値評価を含んだ人為的なものであって、適切性を図る基準や文脈それ自体がそもそも変容可能性があるということ、これである。詳細は私のいくつかの別著を参照していただきたいが、たとえば「死因」という概念を少し反省してみればそのことが窺い知れるだろう。

 糖尿病での闘病生活ののちに発生した死亡の場合、心停止が死因と言えることはほぼ定義的にたしかだろうが、それ以外に死因として析出できる要因は多様にある。糖尿病そのもの、糖尿病をもたらした生活習慣、そうした生活習慣を改善しなかった本人の意志の弱さ、そうした生活習慣を植え付けた家庭環境、そうした家庭環境に関して注意喚起せず啓蒙を怠った国の健康保険政策、家系の遺伝的要因、そして究極的には、本人が誕生したこと、いやさらに遡及して、両親の生殖、さらに遡って、祖父母の生殖....  実に、ほぼ無数の原因候補が考えられる。死亡の原因を誕生とする、というのは荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、理論的には十分正当性があり、アメリカの哲学者デイヴィッド・ルイスもそうした原因指定可能性を論じているし[8]、今日の反出生主義(生まれていこない方がよかったとする議論)もまた、病災害を被ったり、死に面したりする苦悩の原因を誕生に求めている思想であると解することができる。さらに、祖父母の生殖までも、孫の死因候補とすることの荒唐無稽さも指摘されうると思うが、必ずしも全面的に奇妙ではない。祖父が遺伝的疾患を持っていて、そうした遺伝が孫に遺伝し、孫がそれで苦しむさまを祖父が悔やむケースについて、私は、ゲノム編集の倫理についてのシンポジウムで知った。そのようなケースで、孫が早逝してしまった場合、祖父母は責任や苦悩を感じてしまうのではなかろうか。自分が原因だ、という思いが去来してしまうのではないか。

 しかし、私たちの日常生活や社会生活の中では、こうした無数の原因指定可能性に悩まされ、原因の決定不能にいつも立ち往生するわけではなく、たいていの場合、特定の原因指定が説得性を持って承認される。では、私たちは、このように多様な原因指定可能性の中で、どのようにして原因指定への同意を果たしているのだろうか。私は、一つの整理基軸として、「予防可能性」という概念に訴える議論をこれまで展開してきた(ただし、まったくの予測不能な突然の天変地異のような、予防という概念が一切適用できないケースもあるので、それは別枠として論じた)。ようするに、より容易に予防可能であったと判定される、結果に最も近い出来事が、その結果をもたらした原因として指定される適切性が高い、ということである。言い方を換えれば、予防できたはずなのに予防しなかったこと、その「予防できた」という度合いに応じて、原因指定の適切性が測られるということである[9]

 そして、そもそも結果として認定される事態、今回の場合は「コロナ感染者の増大」だが、それは通常の出来事の経過を逸脱したアブノーマルなものであり、それは、避けられるべきだ、もしくは称賛されるべきだ、という規範的な価値判断が関わっている、という理解のもとで同定される。こうした因果性理解は、ハートとオノレの古典的名著『法における因果性』以来の、一つの伝統的な見方である。なにも価値的に突出性がない、ごく普通で注目されない出来事は因果関係の検討対象にならない。たとえばPCのキーボードを叩くと音がすることは因果的探究の対象とはならない。けれども、キーボードを叩いたときに、PCが燃えだしたなら、何が原因か、ということになるだろう。ということは、原因指定というのは、実は規範性(あってはならないとか、あるはずがないとか)と連関しているということになる。このことは、言葉の元々の意味からして、実は当然である。なぜならば、「原因」概念は本来的に「責任」概念と同義だからである。日本語の「何々のせい」という表現を想起してほしい。それは、原因指定にも責任帰属にも同等に用いることができる。

 

感染者増大の原因

 このように捉えてくると、オリンピック期間中、あるいはその後に、コロナ感染症が増大したことの原因について、どのように整理したらよいのかが少し明らかになってくる。オリンピックを開催すると、たとえ緊急事態宣言が出ていても、人々の心が華やいで外出を促してしまう、というストーリーがどこまで説得性を持つかは実はよく分からないが、ここでは話を簡単にするため、原因候補となるものを、「オリンピック開催」と「人々の自粛不遵守」の二つに絞ってみよう。さらに話しをシンプルにするため、コロナ感染者増大に対する時間的近さという点で、二つは同等と見なそう。本当は、コロナウイルスの場合、感染してからおよそ二週間後に症状として表れるのだから、オリンピック期間中の感染者増大はオリンピック開催とは直結しないとも考えられるが、オリンピック開催前から多くの外国人選手が来日しており、開催ムードが高まっていたので、そういう意味でも「オリンピック開催」と「人々の自粛不遵守」の、感染者増大という結果に対する時間的近さは同等と捉えてよいと仮定する。そのように想定すると、二つの原因としての適切性を測るには、ひとえに予防可能性に焦点が当てられねばならないことになる。

 「オリンピック開催」を予防すること、すなわち中止にすることは、どの程度可能だったろうか。あるいは、「人々の自粛不遵守」を予防すること、すなわちきちんと緊急事態宣言を遵守して自粛することは、どの程度可能だったろうか。私の理解では、オリンピックを中止するというのは、もちろん可能だったが、国家や機関という大きな単位に関わる事柄であり、コストや影響という点でインパクトが大きい。しかも、オリンピック開催は、単にデメリットだけでなく、メリットもあったし、実際そのメリットは実現されたと考えられる。日本に対する国際的な評価もおおむね高まったし、多くの感動的なエピソードも産んだ。それに対して、人々の自粛不遵守を予防することはどうかというと、これは、個々人の行動に関わることで、一定期間自粛することは個々人がそう意志すれば実行可能なはずである。むろん、楽しみが減るといった、自粛することのデメリットもあるだろうし、逆に、出かけることのメリットもあるはずである。しかし、オリンピック開催中止に比べると、自粛を維持するというのは、より容易に実行できたと、つまり予防可能性が高いと、そう言えるのではないか。人々がそれぞれそうしようと意図すればよいだけだからである。国家や機関に対するマッシブな影響はほとんどないだろう。

 これに対して、オリンピックを開催するとなった以上、人々の行動の弛緩を避けられない、と述べ続けるのは、なんとも人々の自律的かつ理性的な人格性に対する冒涜のようにも思えてしまう。それはまるで、ダイエット中の人の前に一口チョコレートが置かれていて、我慢できずにそれを食べてしまったとき、その責任を、食べてしまった人自身にではなく、チョコレートを買ってきた人とか、チョコレート製造会社とかに帰しているような論法に聞こえてしまう。本人が食べなければ済む話しなのに、である。もし感染者増大という出来事をなんとしても避けるべきことだと捉えるのだとしたら、やはり「人々の自粛不遵守」を予防するべきだったのに、つまり各人が感染予防対策を実践すべきだったのに、それが必ずしも実行されなかったことが、感染者増大の原因として最も適切性が高いと私には思われる。それは、オリンピック中止と比較するならば、たしかにより容易に「予防できる」はずの選択肢だからである。オリンピック開催に対していろいろな視点から懸念を感じていた人々は、オリンピック開催の影響だけを「見ること」に注力して、そのことによって他の考え方の可能性を「見ないこと」になっていることにもしかしたら気づいていないのかもしれない。やはり、原因追求・責任追求の文脈においても、「見ること」と「見ないこと」の同時性をつねに注意を払って思い起こすべきである[10]

 むろん、これに対して、そもそも感染者増大は必ずしも重大な悲劇と捉える必要はない、という立場も考えられる。死者数あるいは致死率は世界的に見るとたしかに大きくないので、そのような見方もありえる。そうした見方を採る場合、オリンピック前後の感染者増大の原因は何か、という問いは重要性を持たないことになるだろう。何も気にせずに、オリンピックを有観客で開催すればいいだけだ、と考えられるかもしれない。いずれにせよ、今回のコロナ感染症問題の帰趨はまだ完全には明らかとなっていない。しかし、事態がどのように推移しようとも、「見ること」と「見ないこと」の同時性は忘れられてはならないのではなかろうか。

 

 コロナ感染症、そしてさまざまな病災害にて亡くなられた方々に衷心より哀悼の意を表して、論を閉じたい。

 



[1] 哲学に少し詳しい方ならば、「見ること」と「見ないこと」という対比を聞くと、フランスの哲学者メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』という書物を想起するだろう。本論文の表題は、そのメルロ=ポンティの書名のもじりであり、内容的にも基本的な着想はそこから学んでいる。ただ、メルロ=ポンティがおもに知覚に主題を置いたことに対して、本論文は「見る」という行為に焦点を当てようとしていると述べることはできるかもしれない。

[2] こうした震災関連死の問題以外にも、事実として「見ないこと」にされてしまったのは、被災動物の問題であろう。家畜や犬猫などが、原発事故後にどのようになり、どのように対応されたかについては、ぜひ一ノ瀬(2021)の第4章を参照していただきたい。

[3]  https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai19/dl/gaikyouR1.pdf

[4]  日経新聞2021222日版を参照。

[5]  総務省統計局「労働力調査(基本集計)」による。

[6]  https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00976/

[7] もう一点、人権思想について注記する。もともと人権思想はキリスト教思想から発祥したものであり、創造主としての神が神の似姿としての人間に、自然法という一定の条件の中で付与したものである。歴史的には「自然権」などと呼ばれる。近代では、ホッブズやジョン・ロックの哲学において理論的に緻密な仕方で展開されたことが一つの発端をなしている。そこには、根源的には、人間が人間を裁くことは、とりわけ「いのち」に直接関わることについて裁くことは、本当は越権であり、真の裁きは神による「最後の審判」においてなされる、という思想が含まれている。私たち人間の「いのち」は神の賜物であり、私たちのものではなく、神のものなのであり、私たちが勝手に処分してよいものではない、という考え方である。こうした思想の背景のもと、キリスト教文化圏では死刑が廃止される傾向が促されていると考えられる。では、死刑賛成論が多数の世論を占める日本において、そうした人権思想はどのように捉えられているのだろうか。日本での「人権」は、"Human Rights"なのか、それとも"Jinken"という、日本固有の概念なのだろうか。考えるべき問題は山積している。

[8]  Lewis (2004), p.101.

[9]  一ノ瀬(2018)3章、および一ノ瀬(2021) 3章を参照のこと。

[10] ここでは詳しく言及できなかったが、マスクやワクチンの意味についても検討していく必要があることは言うまでもない。それらには、メリットとデメリットがある。そこでも「見ること」と「見ないこと」の同時性への顧慮が求められていると言えるだろう。

 

 

参考文献

 

Hart, H. L. A. and Honoré, T. 1985. Causation in the Law. Second Edition. Oxford at the Clarendon Press. 邦訳『法における因果性』、井上祐司・真鍋毅・植田博訳、九州大学出版会、1991

一ノ瀬正樹 2018. 『英米哲学入門 -「である」と「べき」の交差する世界』、ちくま新書

一ノ瀬正樹 2021. 『いのちとリスクの哲学 -病災害の世界をしなやかに生き抜くために』、MYU

一ノ瀬正樹 近刊予定「自然災害と感染症に立ち向かう倫理 -大震災とコロナ感染症の中で「しあわせ」は成り立つか」、西本照真・一ノ瀬正樹編『病災害の中のしあわせ -自然災害とコロナ問題を踏み分けて』所収、武蔵野大学出版会  

Lewis, D. 2004. 'Causation as Influence', in J. Collins, N. Hall, and L. A. Paul (eds), Causation and Counterfactuals, MIT Press, pp.75-106.


署名 / エールを贈る