日本文化と、治安、日本の未来である子供たちの安全を守るためのアバヤを着て、ニカーブで顔を覆う禁止を求める請願
日本文化と、治安、日本の未来である子供たちの安全を守るためのアバヤを着て、ニカーブで顔を覆う禁止を求める請願
- 提出先:衆議院法務委員会 理事/木原誠二議員
活動詳細
20年も前の私が20代前半の頃、
人生で初めて、全身を覆い、
日本で生まれ育ち、
初めてその光景を見た時、顔が見えないこと、
日本社会では、人の表情や雰囲気、顔の見える距離感によって、
そのため、顔や身体の多くが隠されている姿を見た時、
「この人は誰なのか」
「どんな表情をしているのか」
「何を考えているのか」
「何を持っているのか」
そうしたことが分からないことに対して、
人生でさらに衝撃を受けたのは、
彼女によると、全身をアバヤを着て、
その場では、母親たちの顔や身体的特徴がほとんど見えないため、
特に幼い子どもにとって、母親の顔、表情、口元、目線、
それが大きく隠されてしまう環境では、
さらに公共空間においては、顔が見えないということは、
人を識別できない。
表情が読めない。
性別や年齢の判断が難しい。
何を持っているのか分かりにくい。
本人確認や防犯上の認識がしづらい。
これは、宗教への偏見以前に、
たとえば日本社会では、マスクや帽子でさえ、
銀行、空港、学校、保育施設、行政機関、
その延長で考えれば、全身や顔を完全に覆う服装に対して、
しかし一方で、「宗教だから一切疑問を持ってはいけない」
宗教的自由は尊重されるべきです。
けれども、公共空間における安全、子どもの保護、本人確認、
問題は、顔や身体を極端に隠す衣服が、
顔や全身を覆う服装は、
すなわち、誘拐や連れ去りを防ぐために重要な“個人識別”
特に日本のように、顔の見える関係性、表情、距離感、
この経験を通じて感じたのは、
私たちが中東に行けば外国人。
政府や関係機関に対し、日本の文化と治安を守るために、
ご寄付は任意ですので、ご署名だけ頂くことでも全く構いません。
それでももし頂けるようでしたら、お気持ちに感謝し、大変ありがたくお受け取りさせて頂きます。
また、皆様のお気持ちを無駄にしないよう、最後まで一層の責任を持って提出させて頂きたいと思います。
代表 細野ナターシャ
私は2021年からトルコに移住し、仕事の拠点の多くをトルコに置いてきました。
日本で生まれ育った私にとって、トルコ、そしてイスラム圏の社会構造は、当初まったく未知のものでした。移住前は、トルコはイスラム圏の中でも比較的ゆるやかで、世俗的な国だと認識していました。しかし実際に暮らし、仕事をし、人々と関わる中で、私は宗教が単なる個人の信仰にとどまらず、時として信者ではない人々の生活、服装、行動、発言、女性の自由にまで強く影響を及ぼす現実を身をもって知ることになりました。
問題は、個人の信仰ではありません。
問題は、宗教的価値観が社会全体のルールとして押し出され、信じていない人、従いたくない人、異なる文化を持つ人にまで「従うべきもの」として迫ってくる構造です。
トルコの都市部では比較的自由に見える場面もありますが、内陸部に行けば行くほど、女性が外で自由に話すこと、男性と並んで歩くこと、スカーフを着用しないことに対して、強い視線や非難、時には罵声が向けられる場面があります。女性の服装や振る舞いが、本人の自由ではなく、周囲の宗教的価値観によって評価され、制限される空気があります。
これは日本で育った私にとって、大きな衝撃でした。
日本社会では、多くの人が特定の宗教を強く持たず、他人に信仰を押し付ける文化もほとんどありません。神社やお寺を大切にしながらも、それを他者に強制することは少なく、宗教はあくまで個人や地域文化の中に穏やかに存在してきました。
だからこそ、日本人は宗教的な主張に対して強く反論することに慣れていません。相手の信仰を尊重しようとするあまり、相手がこちらの文化や生活様式にまで踏み込んできた時にも、はっきりと線を引くことが苦手です。
私はそこに強い危機感を持っています。
多文化共生は大切です。異なる文化や宗教を持つ人々を、理由なく排除すべきではありません。しかし、多文化共生とは、一方の価値観だけを無制限に受け入れることではありません。
受け入れる側の文化、歴史、生活様式、安全、自由も同じように守られるべきだということです。
もし、イスラム教が「自分たちの信仰こそ絶対である」「なぜ断食をしないのか」「なぜ女性がその服装なのか」「なぜこちらの宗教的慣習に合わせないのか」と、他者にまで従うことを求めるなら、それはもはや単なる信仰の自由ではなく、他者の自由への介入です。
私は、イスラム圏で暮らす中で、この「押し付け」の構造を実際に見てきました。
そして、日本が同じ構造に対してあまりにも無防備であることに、不安を感じています。
イスラム圏では、神社やお寺を自由に建てることは不可能です。たとえ比較的ゆるいとされるトルコであっても、日本の神社やお寺が地域社会の中で受け入れられるかといえば、愚問というのが現実です。一方で、日本では「多文化」「宗教の自由」という言葉のもとに、モスクの建設や宗教的慣習の受け入れが進んでいくことがあります。
私はここに、強い非対称性を感じています。
相手の国では認められないことを、日本では無条件に認める。
相手の社会ではこちらの文化が尊重されないのに、日本では相手の文化だけを尊重する。
この一方通行の寛容は、本当の意味での共生ではありません。
また、日本における土葬の問題にも、私は懸念を持っています。日本は火葬を基本としてきた国であり、土地の狭さ、衛生面、地域住民の感情、地下水への影響など、現実的な問題があります。宗教的理由だけで、その土地に住む人々の不安や生活環境が軽視されるのであれば、それは慎重に考え直すべきです。
さらに、ヒジャブや宗教的服装についても、個人の自由として尊重されるべき側面はあります。しかし、それが女性の自由な選択ではなく、宗教的・家族的・社会的圧力によって強制されるものである場合、日本社会はそれを単純に「多様性」として美化してよいのか、慎重に考える必要があります。
私が問題にしているのは、宗教の名を借りて、女性の自由、個人の選択、日本の文化、地域社会の安心、そして信仰しない自由が侵食されていくことです。
信じる自由があるなら、信じない自由も守られなければなりません。
祈る自由があるなら、祈らない自由も守られなければなりません。
宗教的慣習を大切にする自由があるなら、それを他人に押し付けない責任もあるはずです。
私はトルコでの5年間の経験を通して、相手を尊重するだけでは自分たちの文化や自由を守れない場面があることを学びました。
日本人の優しさ、曖昧さ、相手を傷つけまいとする姿勢は美徳です。しかし、その美徳が利用される場合もあります。相手がこちらの寛容さを「尊重」ではなく「譲歩」や「支配できる余地」と受け取る場合、私たちは態度を変えなければなりません。
、日本という国が、日本人の生活文化、女性の自由、治安、地域社会の安心、そして無宗教でいられる自由を守らないまま、外部の宗教的価値観を無防備に受け入れていくことには、強く反対します。
多文化共生とは、日本側だけが我慢することではありません。
寛容とは、自分たちの文化を差し出すことではありません。
宗教の自由とは、他者に宗教を押し付ける自由ではありません。
私は、トルコで実際に暮らし、イスラム圏の現実を見てきた一人として、日本が同じ過ちを犯さないよう、声を上げていきたいと思っています。
日本の文化、日本人の生活、日本の女性の自由、そして信仰しない自由を守るために。
これが、私が活動する理由です。
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