三浦春馬さんの作品や歌を地上波で見たくありませんか? 彼の功績を取りもどしましょう!

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三浦春馬さんの作品や歌を地上波で見たくありませんか? 彼の功績を取りもどしましょう!

  • 提出先:警視庁 警視総監様
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作成者: RyuことRyuichi Tanaka

活動詳細

■ はじめに(活動の目的や概要)2020年7月18日 俳優の三浦春馬さんは 自ら自宅のマンションで命をたったとされています。

報道では

遺書があったことから すぐに自死であると ニュース速報が流れました。

その日の14時には 懸命な蘇生にもかかわらず 亡くなりました。と報道されてます。

しかし、事務所は49日後には遺書はなかったと 訂正報道が!

遺書がないなら、何故 自死と決めつけたままなのでしょうか? 普通で考えたら 不明確な死 不審死となります。

また、18日の午前中にニュース速報を見たと言う たくさんのファンの方もいます。

海外でも 同様のニュースを前日17日に 見たとの情報まであるのです。


4年経った今でも 事務所からの何の記者会見すらなく

多くのファンの方たちは 心を痛めてます。

今の日本では 自死は悪ととらえられ、その後は 彼の作品や歌も地上波で流される事はありません。何故なら スポンサーに悪影響を与えるからです。

せめて、自死ではなかった!と

訂正報道して欲しいのです。

その為には 再度 三浦春馬さんの 当日の時系列、遺書の有無、を再捜査、再調査をお願いします。





■ 活動立ち上げの背景・理由
三浦春馬さんの自死報道は遺書がないのですから、訂正報道すべきです。取り消して下さい。

不審死なら 春馬くんの作品や歌を

地上波で放送できます。

例:歌手のZARDさんは 最初 自死報道がありましたが 皆さまご存知の通りZARDさんの歌は あのチャリティー番組の応援歌!このままでは 使用出来なくなります。そこで 究極 事故だったと 訂正報道したのです。

国民的テーマソングですからね 具体的にその決定は誰も傷つけませんよね。



■ また 今回の活動はお金を収集する事を 目的としておりません

そこを明確に ご理解の程よろしくお願いします

エールや寄付金をいただきましても 発起人には届きません

集まって署名の数にかかわらず、提出先には必ず届けます

その際にかかる費用につきましては 発起人が全負担いたします。


下にスクロールすると 色々な

エールのこと書かれていますが

あちらは このサイトの定型文で 消す事は出来ませんので

ご了承 ご理解のほど また、仮にエールなど寄付金が発生した場合でも そのお金は 発起人には入りませんので

宜しくお願いします。

🌟エールをいただいた方

には 感謝いたします。


🌸🐎 
発起人に ご意見など 個人的にお話しが ございましたら

どうぞ ご遠慮なく

インスタのDMの方にくださいね

時間がかかっても 全部見させていただきます。

お返事します






■ SNS

Instaglam:JUPTER.08.22 Ree

新着報告

2024/08/03
8月になりました。毎日暑いので体調管理してくださいね

ご協力 ご署名いただきまして ありがとうございます。

ゆっくりですが 春馬くんの輪が広がってます。今回は募金を目的にしてませんので お名前のみ ご住所もいりません!お友達にも 拡散の方を 宜しくお願いします。

四年目だから 出来ること あると思うのです。

どうぞ宜しくお願いします🙇




2024/07/29
この度は ご協力いただきまして誠にありがとうございます

おはようございます

お忙しい中 ご署名いただきまして

ありがとうございました

春馬さんも 喜んでることと思います

期間は12月10日とさせて頂きます

天外者の封切り日でしたね

沢山の方に 声が届きますように

拡散の方 宜しくお願いします




2024/07/29
この度は ご協力いただきまして

メッセージ

2024/08/29
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林みどり
私は何も出来ませんが それでも 春馬君の姿がTVで観ることが 出来ないのは 不思議で あの最後とされるドラマが途中で終わった事が納得出来なくて‥ 春馬君ファンは ファンでないとされる人でも 真実が知りたいと思ってると思います❗❗ 

2024/08/27
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杉本和美
日本書紀、古事記、記紀、古文書、出雲口伝に欠史八代の人物が謎と… 出雲口伝から桜井茶臼山古墳は太田田根子だと思いますが、登美家の血筋というのは出雲口伝による仮冒と考えられるので、苧環伝承を基にすれば、大物主の系統の太田田根子かと思います。大物主が饒速日であれば、物部氏の王権について書きたくなかった記紀にとって、この古墳は載せたくなかったのでは? 大阪で田中卓先生の古代史の講義を受けていました。田中先生によると、国譲りは2回あったそうです。 出雲→ニギハヤヒ→天孫族 三遠式銅鐸とニギハヤヒが関係するという説もあるようですね。 出雲口伝を読む前は、 大物主はニギハヤヒと思っておりましたが、 三輪家の系図にも、 先代旧事本紀にも、 登美家の祖は 事代主となっています。 大物主は事代主・八重波津身と クシヒカタです。 物部では全く 筋が通りません。 栃木にある大神神社の御祭神は 【倭大物主櫛𤭖玉命】です。 【クシミカタマ】であり、 クシヒカタのことです。 実際にヤマトを開拓し、 ヤマト政権を創建したパイオニアです。 大物主の妃は 活玉依姫ですね。 ですので、 ヤマトへ進出した当時、 クシヒカタらは 祖の八重波津身をお祀りし、 その後、子孫たちは クシヒカタも大物主として お祀りしていったと思われます。 わたしは 勝手な妄想ですが、 三輪山に埋葬されているのは、 クシヒカタだと思っています。 和多志は、也のようにおもいます。 平城京から、追い出された民族愛知県名古屋市「㋩」なのだから、よろしいんじゃないのですか? 秦河勝の歴史と繫る八咫烏物部守屋系  これってヘイトですか? 訂正させて頂きます。 帰化人です。 【天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊】 の【櫛玉】に当たる方です。 ついでに、 率川神社のお祀りでもわかります。 初代皇后・タタラ五十鈴姫の 御父が大物主ですね。 タタラ五十鈴姫の父は 事代主です。 物部は東征して 三輪山祭祀を行っていた 磯城王朝を倒す側です。 『ヒミコの墓からわかる隠された血脈』 ~もうヒミコの正体なんてわかっている~ ヒミコの墓とされる代表的な古墳は ●福岡県糸島市の「平原(ひらばる)女王墓」 ●福岡県京都郡の「石塚山遺跡」 ●福岡県赤村の前方後円墳 https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/402402/ ●奈良県桜井市の「箸墓古墳」  地質が卑弥呼の死の年代240~246年代 ●奈良県桜井市「ホケノ山古墳」 ●奈良県「桜井茶臼山古墳」(銅鏡81面出土) ●四国徳島県などにもあるという ヒミコとされるこれら被葬者の血脈を見るとみな同じ血脈と知れるのに、現代研究者はそれが「禁忌」に触れるためとぼけている。 箸墓の被葬者 #ヤマトトトヒモモソヒメ → 三輪山セヤダタラヒメと同じ伝承を持つ。   記紀に「神御子*三島湟咋耳神の娘」と   記載されるセヤダタラヒメと同じ。 → 孝霊の娘説もあるが、孝霊は欠史八代と数えられる架空の存在ともされる。 孝霊は大三島大山ツミ神社の社伝に「三島明神の化身」とあるように「三島姫神」にムコ入することで「化身」と呼ばれる。 同じくムコ入した「出雲」のコトシロヌシが三島神社で「三島明神」を名乗れる大義名分を得たのに対し、あくまで「化身」に留まるのは孝霊が「架空」であるからか、それとも「出雲」より遠縁の「大和」であるからか? 孝霊の后(つまりは婿入した三島姫神)は ●ホケノ山古墳の被葬者とされる。♪意富夜麻登玖邇阿礼比売命(オオヤマトクニアレヒメ)」とされる。別名にクニカヒメや「大井媛」もあるが、このクニアレヒメにも、ヒミコ二代目トヨ説がある。 『ヒミコは元祖 海賊女王💕』 https://www.youtube.com/watch?v=WinOq5uRnvA 母娘双方にヒミコ説がある。 個人特定せずともこの血脈の祭祀職掌名が「ヒミコ」と承知すればシンプルなのに。 https://marishi.weblogs.jp/blog/2009/06/post-db06.html 二代目「台与、壹与(とよ,いよ,いちよ)」説のあるクニアレヒメの「アレ」というのは、古事記の語り部「稗田阿礼(ひえだのあれ 27才女性)」と同じ。神霊を出現させる依代(よりしろ)を指し綾絹や鈴で飾られる呪具や、巫女自身を示す。 欠史八代が存在したとすると ■孝霊は249~267年、在位19年だそうだ。 249年はヒミコ崩御 台与が13歳で継いだ年 日本書記にはヒミコの候補名が記載されているという。それが孝昭(欠史八代)の皇后「豊秋狭太媛」の娘「大井媛」だそうな。 注文【この頃の隣国の歴史背景「三国志」には、卑弥呼って、親日なのか?魏の国の属国なのか?説】 Create A Blog With Google DocsSign In July 7th, 2024 補遺51「辰王滅亡と魏韓戦争」 天孫族考補遺51  「月支国辰王滅亡と魏韓戦争」 ◯出雲族の渡来の切っ掛けは何だったのか? 但し出雲族という名称は、この部族が本邦=秋津島列島へ渡来した後、最終的に“ヤマト”に進出して三輪王朝を建てた;そのヤマトの別名が出雲であった為に、部族名を出雲族と通称するようになったのであり、元々は辰韓にあった月氏黄牛族の伊西国(五十国)を中心とした部族であり五十族とも言うべきなのであろう。 この伊西国というのは、辰韓清道の冉奚(冉路?)国であろう事は、既に過去の天孫族考で考証した通りである。 (もっとも、冉奚国は、魏志に載る魏の幽州刺史だった毌丘倹が、半島北東岸の濊族を討った時に、恐れをなして投降してきた韓族諸国の中の那奚国の事だろうという説がある。しかし、私は那奚国は辰韓のかなり北部内陸の国なので、それは冉奚国の友邦の牛頭方だったのではないかと考える。) 天孫族考で論考したように、出雲族は伊西国五十族と共に、馬韓・辰韓境界部の牛頭方の氏族とほぼ同時に渡来してきたらしい。 この内、五十族は玄界灘を渡海して北九州〜山陰西部に来住し、牛頭方族は鬱陵島〜隠岐島経由で山陰東部〜北陸へ渡来したのではないか?と述べてきた。(前者が、北九州に伊都国を建てた氏族である。) さりながら、この“出雲族”が、何故秋津島列島へ渡来するようになったのか?の理由については、過去の天孫族考では、“辰韓の有力な一国である斯羅(後の新羅)との、辰韓の覇権争いがあって、それに敗れたためではなかろうか?”との推測を述べていたのであった。 だがこの推測について若干修整をし直したいと考えるようになった。 というのも、その辰韓内の覇権掌握という斯羅国の動きは、そもどうして生じたのかという事への考察が不十分だったと考えるようになったからだ。 それは、下述の故武田東大名誉教授の見解の検討から、伊西国の南下は、時期的には斯羅が辰韓の覇権掌握して新羅となる過程よりも、もっと前に開始されていたのではないかと考えるようになったからである。 ◯武田幸男東大教授の見解について 有名な朝鮮史研究学者である武田名誉教授が、2021年に逝去され、その学績が今見直されている。 その中に、「三韓社会に於ける辰王と臣智」という論文がある。この論文が発表されたのは、はるか30年も前の1995年の事であった。しかしこの論文は、朝鮮史研究の学会誌に掲載されたもので、当時の史学会の中では、あまり大きな反響は無かったか?と思われ、当時東洋史を一般の知識人に啓蒙するに大なる功績のあった季刊誌「東アジアの古代文化」などでも取り上げられてはいなかったと思う。 この論文は、2019年頃に、東大のレポジトリに収載されて、電子検索の対象となっていたらしいが、遺憾ながら浅学の私はこの程までこの論文の存在には気づかないで来ていた。 その頃、この論文公開に注目した人がいて、2019年に早くも、古代史をテーマにしたblog「白石南花の随想」に取り上げて論証していたのだが、私は直近までこのハンドルネーム白石南花(シロシャクナゲ)氏の考証の存在も知らなかった。 さてその故武田教授の論文の内、私に幾つかの情報知識の見直しを迫るものがあったのは事実である。(一部は首肯できないのだが。) それらの中で、私が、その事象の大きな価値を見落としていたと思えたのは、3世紀半ば(247年?)に起こったという「魏に対する馬韓辰韓数十ヶ国の反乱」という事件である。 どうもこれまでは、魏の大将軍司馬懿(仲達)が、遼東半島〜朝鮮半島中部までを支配して燕王を自称した公孫氏を討滅し(238年)、漢の設置した楽浪郡と公孫氏が分立した帯方郡を魏の直轄支配にしたのだがそれに伴う韓族側の付帯反応の一つとしての反乱事件であり、速やかに鎮圧されてしまったという程度の事象として受け止められて来たのである。 だからその印象は、反乱した少数の韓側の抵抗だとの程度のものであり、武田論文にあるような数十ヶ国もの大反乱だとは思っていなかった。馬韓が五十数ヶ国、辰韓弁韓の主要国がそれぞれ12ヶ国というので、合わせても80ヶ国弱であり、数十ヶ国と言えば三韓の半分以上の村邑国家が参加した事になるからだ。 先述の白石南花氏はこれを「魏韓戦争」とまで呼び、日大系の神道学者・竹田日惠氏などは「韓魏大戦争」とまで称している。 とはいえこの戦いは、魏志韓伝では次の短い記録である。 部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、臣濆沽韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。 この事件では確かに帯方郡の太守だった弓遵が討死しているのだが、反乱は楽浪郡太守の劉茂によって直ぐに討伐されたというのである。 (しかしこれは魏志が敢えてそういう印象を与えるように、つまり蛮族の小反乱の如く見せかけたのだと白石南花氏は解釈する。この戦闘は魏志では、「崎離営の戦い」という。崎離営は帯方郡太守の営所である。崎離営は韓国語でキリヨンなので、韓国では“キリヨンの戦い”と呼ばれるようだ。) この討死したという弓遵というのは、魏志正始元年の以下の有名な記事に登場する人物である。 -------------------------------------------- (正始元年の郡使来倭) 正始(魏の斉王芳の年号)元年(240)、(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。  -------------------------------------------- そして正始八年には帯方郡の太守は王頎になっている。 だから弓遵の討死した韓の反乱は正始六年か七年だと推測される。 その弓遵が使いを遣わしたという倭王が、魏志によれば卑弥呼とされているのである。 という事は、邪馬台国もそれに敵対していた狗奴国なども、公孫氏の地方政権3世代の間には既に成立していたと考えざるを得ない。 ◯反乱の原因と辰王〜馬韓月支国の滅亡はいつだったか? 238年に公孫氏が滅亡した。それまでは、馬韓辰韓は帯方郡を通して公孫氏に統属していた。 その諸国を統べて公孫氏に服属させる要めが月支国に居たという辰王の存在だったというのが、武田氏の見解である。 辰王は古の辰国の王だとされているが、武田氏は“この辰国は幻の存在ではないとしても、何処にあったのか分からない”としている。 だが、この古の辰国については漢書に次のように記されている。 -------------------------------------------- 「衛氏朝鮮王の右渠が、真番や辰国が上書して天子(武帝)にまみえんと欲するのを妨げて通さなかった。(漢書、西南夷両粤朝鮮伝)」 -------------------------------------------- これが古の辰国で、漢の武帝の頃、辰国は存在していた。しかも衛氏が通交を妨害したとするので、真番(当時は燕の外というので遼西にあったか)と辰国が併立されているので、遼河北東域に辰国があったのではないかと想像される。この辰国の王が南遷して馬韓に入り月支国を治所としたという事になるだろう。 そして、馬韓の月支国にあって、馬韓の複数国と、ほぼ全辰韓国の双方に跨る王(最高首長と武田氏は表現する)だった。武田氏の考えでは弁韓にも2国ほど(安邪国と狗邪国か)が辰王を潜在的な盟主としていた国があったという。また月支国には、辰王の下に月支国自体の直接的な支配者である“臣智”がいたとし、辰王は馬韓辰韓の各国の王である臣智や邑借(ユウシャー)に対する優越的な存在だったする。 (この月支国の二重権力はあたかも室町時代の京都での、天皇と足利将軍の関係を想起させる。但し私は、この二重権力論には無理があると考えている。もしそれがあるとしたら、辰王が女王でその下の臣智が男性の副王であるというような場合だけだ。しかし辰王が女王なら、この時代倭=邪馬台国に既に女王がいた事になっているので、この馬韓の月支国の女王の話も特筆されていた筈だが、そんな話は全く出ていない。) そして、武田説では、この辰王を盟主として公孫氏と通交する(いわば一大率)役が、臣濆沾国の臣智であったというのである。 公孫氏滅亡後、楽浪郡帯方郡の二郡を直轄支配下に置いた魏は、辰韓12ヶ国の内の8国を、従来の帯方郡一括統属から楽浪郡統属に移す事を(部從事呉林が)通告したというのである。つまり辰韓は8国が楽浪郡支配に、そして残る4国を帯方郡支配下としようというのだ。 (馬韓についての言及が無いことから、馬韓は従来通り帯方郡支配のままだったのか。) これに憤激したのが、辰王の大臣だった臣濆沾国だという。臣濆沾国は国民が一万人もいたといい、当時の帯方郡+楽浪郡の住民よりも多かったらしい。臣濆沾国が怒ったのは、武田氏によれば、伝統的な臣濆沾国の馬韓辰韓諸国の代表権と辰王の代理としての権威の否定と考えたからであろうという。 恐らく実際に、“分割して統治する”の原理の如く、臣濆沾国〜馬韓・辰韓の権力の弱体化を、魏の官僚達は意識していたのだろうとは思われる。 そして、臣濆沾国が真っ先に決起して帯方郡を襲い、哀れ太守の弓遵は戦死してしまった。これに三十国以上が呼応したのだと。 そしてこの反乱鎮圧の結果、白石南花氏の形容によれる“遂韓滅亡”という事態を生じたというのである。 そして、反乱に味方した国々は魏による弾圧で存続が難しくなり、反乱に中立だったかもしくは魏側に立った諸国が存続を容認された。馬韓では存続した有力国が伯済国(後の百済)であり、辰韓では斯羅だったのである。 臣濆沾国は取り潰され、恐らく背後にいたとみなされた辰王や月支国も存在を許されなくなったのだと武田氏は考えた。つまり、その時点が月支国と馬韓辰韓に跨る最高首長の辰王の滅亡だったという事なのだろう。 しかし、臣濆沾国が辰王の大臣格だったという武田氏の説を裏付ける史料は乏しい。武田氏は臣濆沾国の臣は辰王の大臣であるからで、固有の名は濆沾だと言っている。馬韓には他にも臣雲新国とか臣蘇塗国といった臣を冠した国名があり、これらも辰王の重臣だという説があるようだ。或いはこれが、辰王の後継を決める“選帝侯”なのか。 だが、私見では、月支国の命運は既に公孫氏の時代に尽きており、臣濆沾国が馬韓辰韓を代表して公孫氏と交渉していたとするなら、辰王本系は既に月支国には存在していなかったのではないかと考えるのである。(私は、公孫氏が半島北部に進出して来て楽浪郡の支配権を掌握した時には、辰王の一族は小白山脈の南に逃れ、伽耶山を望む弁韓の高霊地方の大伽耶に移り、更に一部が玄界灘を渡海して秋津島の北九州へ至ったと考えている。古来月氏は、異民族の侵略に対しては、本能的な予感を持っていたと思われる。匈奴の実際上の侵略の時には、既に大月氏・小月氏・中月氏と匈奴の傘下に入る俘囚月氏との4つの形態をとって、民族と皇胤の継続を計った。大月氏国建国や小月氏の大東遷もそうだし、衛満の朝鮮簒奪や公孫氏の半島北部進出などに際しても、いち早く退転南遷をしている。弁辰の加羅に分国を構えていたのも、半島中部の情勢を予感しての事だろうか?また九州渡来の先遣隊にしてもである。) 臣濆沾国の版図は一部は帯方郡直轄となり、大部分は伯済に統合された。伯済は元は貊残で、貊族の国であった。思うに、辰国が遼河方面にあった時に遼東半島の根本辺りに残っていた貊族が、辰国の南遷に同行して韓の地に移住して来たのであろう。臣濆沾国が粛清された事で、伯済が馬韓の覇権を握る契機が出来たのだと思われる。 一方、辰韓では有力な国だった冉路国(伊西国)も、公孫氏の支配を嫌って秋津島列島へ先行渡来していたと思われる。だが冉路国の一部はまだ辰韓にあったが、恐らくその魏韓戦争に中立(日和見)だったか、もしくは臣濆沾国に同心したかで、魏から睨まれる事になった。 この為斯羅の勢威に圧倒される形勢になり、伊西国の支配地は新興新羅に征服され、五十族残部も既に過去に一族が先行移住していた秋津島列島へ亡命移住して行ったのだろう。彼らに同調して北部の同族である牛頭方族の残存部族も恐らく殆どが列島に渡ったと思われる。 ただ月氏三族が遼河域の辰国から韓地へ南遷した時、既に韓地に留まらず秋津島へ渡海した部族もあったのではないかと考えられる。或いは一旦韓地に移住後、前漢の武帝による4郡設置により、韓地もまた漢の楽浪郡や臨屯郡などの間接的な支配を受けるようになったから、これを嫌って韓地を離れて玄界灘を渡った部族もいたのかもしれない。これが“委奴国”を建て、後漢の光武帝から金印を下賜された部族であろう。 また私は、辰王の末裔が中部九州の日下(狗奴)国であったと想定しているので、魏が親中派の邪馬台国に肩入れして、反中国の狗奴国と敵対したのも分かる気がする。 こう考えると、天孫族の狗奴国が東征して成立した大和王朝には、辰王の三韓への潜在主権の観念が継承されていて、南朝に朝貢した“倭の五王”時代に、三韓の軍事統制権の主張をするのに繋がったことも理解されるであろう。 ところで、白石南花氏は武田氏の構想を概ね継承しているので、臣濆沾国の位置は、馬韓では最も北方であり、伯済よりも、帯方郡に近い所にあったとしている。以下に白石南花氏のblogに掲げられている位置関係図を引用する。  なお、白石南花氏は、月支国の辰王が(私のように)月氏の末裔であり、遼河方面にあった辰国(日辰、星辰、月辰の三辰の統合王国)の王であった事を意識していないので、この月支国の名も、別の中国史書の中に見える“目支王”の名称の方が正しいのではないか?という推理をされている。これは月支国の故地と比定されているのは現在韓国で天安という名の市のある地域なのだが、この地域に木州という土地があり、この木州(モクシュウ)が目支(モクシ)に通じるからだとする。 つまり白石南花氏には、月氏の支国だとは思っていない。これは武田氏も同様であるようだ。 だから、辰王が何故に馬韓辰韓に冠たる王なのか?という理由が解明されないのである。 他方で、臣濆沾国の名称の由来にも、臣が付くのは辰王の臣だからという以上に語源解釈はされていない。 韓国版のWikipediaの邦訳版?に依れば、 -------------------------------------------- 臣濆活國 身分活国 マハン(馬韓)54カ国の一つ。 《三国志》 〈ウィジ〉東移転の前部分に出たものとみなされ、今の京畿道北部に位置すると推定される。 漢字の形が似ている身分高国(臣濆沽國)、新分添国(臣濆沾國)、新冊添韓(臣幘沾韓)、身分高韓(臣濆沽韓)としても伝わる。 -------------------------------------------- つまり臣濆沾國の臣濆を身分(シンフン)と読み沾國を活とか高とかに解釈する異伝があるという事だ。 しかし濆沾の発音が分添(フンテン)であるらしい事から、私は、濆沾とは、月氏白馬族の于闐(和田;ホータン)に因むものではないかと考えるのである。というのも、馬韓の名称も、白馬族の住地の意味ではないか?と考えているからである。 魏志韓伝には、 「馬韓在西 其民土著種植 知蠺桑作緜布」 (馬韓は西に在り。その民は土著し、種植す。蚕桑を知り、緜、布を作る。)とあり、“蚕桑を知り、緜、布を作る”のは、タリム盆地以来白馬族の為す生業だからだ。 そも月氏では、独立志向の強い黄牛族に比して白馬族は、月氏の王族である龢族に忠実である事が多かったと考えられる。 実際大月氏系クシャン朝の王も幼時于闐で育成されたという伝承があるからだ。 北九州の天孫族を支えたのも宇佐の秦族(和田族)だった。 だから月氏系の王であった辰王を支えていたのが臣濆沾國だったというのは腑に落ちる話である。 辰国が燕人の衛満の東方進出で、朝鮮半島南半部に移住した時に、辰王は白馬族に守護されて馬韓の地に落ち着き、月支国を治所とした。 白馬族が多い所なので馬韓である。伯済は遼東から辰王に随伴して来て、南韓の一角を占めたのだろう。 黄牛族は、辰王の首長権を認めながらも半島の南東部に定住した;それが辰韓である。(辰韓から弁別したのが弁韓=弁辰であろう。そこは辰韓や馬韓の有力国の分国があったのだと考える。) ◯魏韓戦争と倭国(邪馬台国) 従来、卑弥呼の都した邪馬台国について場所やその消長についてかまびすしい論争が行われて来た。 これは陳寿の魏志東夷伝倭人条の内容が、現代の地理的知見に照らして余りに矛盾が多いからである。 従って、この卑弥呼や邪馬台国というのは、陳寿がある意図に基づいて創作した虚偽だとか、或いは陳寿が参考にした複数の資料間に矛盾があるのだがこれを整理せずに収載したのだろうとか、様々な意見が出されて来た。 Facebookの古代史研究会に於いても、最近青木清さんが、次のように述べておられる。 -------------------------------------------- 陳寿は何ゆえに後から投馬国と邪馬台国を付け加えたかの検証です。陳寿は、やみくもに2つの国を記述したとは思えません。何かの資料が陳寿のもとに届き、それを見て倭人伝に付け加えたと推察します。両国の地は出雲と大和である事が明白だからです。 (中略) 魏に滅ぼされた蜀の人である陳寿は魏の滅亡後、西晋に登用され、司馬一族には特別の思いをもって魏書を編纂したと思われます。特に西晋建国の父である司馬懿仲達は、偉大でなければなりません。これからは想像の世界ですが、陳寿宛に届いた資料は台与が大和に九州王朝を建国した内容だったと想像します。彼はそれを見て、司馬懿仲達の功績を高める絶好の資料であると直感し、投馬国と邪馬台国を新たに文中に書き込んだのではないでしょうか。倭国を大きく見せる具体的な国名と距離が、そこに書かれていたからです。少しだけ操作して、呉の背後を突ける大国にして、その大国を朝貢させた司馬懿仲達を更に偉大にさせる狙いがあった気がします。 -------------------------------------------- つまり陳寿は大恩ある司馬氏の高祖である司馬懿の功績を大に見せるために、不確かであるにも関わらず邪馬台国と卑弥呼を、魏を宗主国と頼る遠夷ながらも愛い奴としてブローアップしたのだと、青木氏は指摘されているのだろう。(もっとも青木氏は、邪馬台国自体は九州にあり、卑弥呼は在九州の女王であり、ヤマトへ東征したのは台与であるとしている。) 実際、このマターについては、“陳寿は複数の資料を無批判につなぎ合わせたので、内容に矛盾があるのは当然で、倭人伝に書かれた通りを辿っていては、実際の邪馬台国には到達する事はできない!”とする説を支持する人も多いのである。 その内、極端な例は、日大系の神道者?(日大「皇道研究所」という実在性の不詳な組織の代表者を名乗っている)竹田日惠氏で、「魏の司馬懿の功績を大きく見せるために、架空の邪馬台国と卑弥呼を倭人条に入れたのだ」とする。 即ち、竹田氏はこの当時の倭国(邪馬台国)は、魏に反抗した韓を際立たせる目的で、韓の内情を裏返しにした=占筮によって陰陽を韓倭で反転して仮構された実際には存在しない国だとする。だから、そこ(倭人伝)に書かれた距離や方角や官名などは全く陳寿による創作だとまでいう。 辰王或いは臣濆沾國が男王なので、陰陽逆の倭は女王としたのだと。 だから架空の邪馬台国など探そうとしても無駄なのだという。また邪馬台国以外の伊都国とか奴国とか倭人伝に列挙された計20ヶ国の名称もまた、馬韓55ヶ国の陽数に対する陰数になるように馬韓の各国名を元に創作された架空の国名だ!とも竹田氏は言うのである。 (竹田日惠氏著「魏志倭人伝の陰謀」日本文芸社刊) 竹田氏の説明の筮竹(易者の引く1本を除く)7x7=49本を並べて倭人伝を読み解くという部分は、正直私には理解し難い。易学の分からぬ一般人には詳しい説明は無駄だということかもしれないが、そこから導き出されてくる古代の倭の実態が全く想像できない。これは竹田氏には「そも倭人伝の内容は占筮による仮構だから実態が見えないのは当然である」となるのかも知れない。 だが竹田氏の言うように、魏の一時的にもせよ敗北した魏韓戦争を糊塗する為に架空の倭の話が出されて、魏に忠実な倭国とその女王の卑弥呼が出て来るように虚構されているとしたら、そこに魏に忠実な女王に従わない狗奴国が登場しているのは、竹田氏の説明の趣旨とは全く矛盾しているとしか思えない。間接的にもせよ魏の意向に逆らっているのだから、狗奴国の存在は肝心の“魏の中華秩序”に対する不服従となり、竹田氏のいう魏の成功を際立たせる効果は減殺されてしまうのである。 (とは言え、竹田氏の主張はその後、倭国とは三韓の事であり、女王壹与も韓の王だと言い、倭と日本とは別の国の話だというようなトンデモ本的になってしまう。更に竹内文書などという既に戦前の司法からも偽書とされた文献の中の世界に入って行ってしまう。) 竹田氏は、矛盾に満ちた倭人伝の方角や里程距離に関する記述から、邪馬台国はまともに存在を肯定できない架空のものだと考え、その理由付けとして占筮による仮構というフレームを思いついたものと考えられる。 だが、倭については既に漢書に於いてその存在が言及されており、(それが奴国なのか委奴国なのかの論争はあるにしても)倭人伝の内容が、古代に関する常識に照らして、全てが意外な内容では無いのである。しかし確かに、伊都国を出発して後の、邪馬台国までの行程の方角と里程距離についての記載の不確かさの問題がある事は否めない。 だから私は、この邪馬台国までの行程は伊都国まで来た魏使に対して倭国(連合)の実態を掴ませないようにする為の倭国側からの故意の矛盾情報なのではないか?と考えている。 つまり魏韓戦争の結末を聞いて倭人側は、魏の主力軍団の恐ろしさが身に染みたであろうから、ここは倭国連合に属する中小国は魏に対しては恭順の態度を取り、なおかつ敵対している狗奴国との間で倭国連合側の味方をしてもらおうという実利を期待したのではないだろうか? 但しその狗奴国との戦闘に魏が実際の兵力を投入する事は可能な限り回避しようとしたのではないだろうか?そして万一魏がヤマトを併合しようというような気を持ったとしても、どこにその首都があるのか見当がつかないようなディスインフォメーションを魏使に与えたのではないか?と考えるのである。だから魏が味方してくれる気を起こさせるために;かつ反抗はあり得ないと納得させるために、倭王は女王だと言ったのではないかとも思うのだ。だから王と共に、(後世の琉球王国の大巫女である聞得大君のような存在の)卑弥呼がいたとして、王は女王の男弟であるにもかかわらず、政治の決定権はシャーマンである卑弥呼の鬼道による託宣の結果にあるのだと見せかけたのではないかとの疑いが生じるのだ。 私は、邪馬台国連合とは、ヤマト大倭(オオヰ)→ヤマタイだと考えて来たし、それはヤマト(つまり元出雲)に建国された三輪王朝の事だと考えている。出雲族即ち月氏黄牛族なので、彼らは辰韓の部族と同じである。彼らも元来は月氏なので、女王の存在を全否定はしていない。(後世だが、辰韓を統一した新羅にも真徳や善徳といった女王が立ったことがある。) だから卑弥呼が全くの架空とは思えないのである。 内紛の後には、(恐らく息長=置龢という月氏バラモンの女系の血脈を一つの保護氏族として抱えていたであろうから、その)神聖血脈の巫女を共戴する事によって、情感的に共感心理を保つ選択をしたのであろう。 これは、王者の皇妃である事で大王位を継いだ皇極や持統と違って、独身女王である元正天皇や称徳天皇に近いのが卑弥呼である。 (もっとも称徳の場合、統合の絆にはならず、むしろ内紛の元を作ってしまったのであるが。)元正から見れば、称徳(孝謙)は宗女である。 卑弥呼の後に台与が共戴されたのも、後世から照らせばそれ程不思議では無い事に思える。 ところで、この魏韓戦争についての武田教授や白石南花氏の言説に接して、従来からの私の幾つかの疑問が氷解したのも事実である。 ①何故、三韓の西側(黄海側)地域は馬韓と呼ばれたのか?無論、従来から白馬族の人口が多かったからだろうと考えていたのだが、そこに貊族の国である伯濟があるので、貊韓などと呼ばずに、馬韓なのは何故か?という疑点である。これは、貊族というのは、北欧でいうバイキングのような強力な民族なので、統一後の百済になる前から伯濟が主力国だと思っていたからである。 だが、魏韓戦争までは、臣濆沾國のような白馬族の国がヘゲモニーを取っていたのであれば、そこはやはり馬韓というに相応しいと考えられるようになった。 ②「月支国に治する辰王は流移の人であり、その選定は馬韓の有力国の決するところに従う」と韓伝にあるので、てっきり馬韓の有力国であるはずの伯濟がイニシアチブを握っていると考えてしまっていた。だがこれも①と同じで、どうも臣濆沾國が失脚するまでは、辰王の選帝侯は馬韓の(多分伯濟国を含まない)有力国の臣智達であったらしいと気付かされたのである。 更に、③三韓時代末期、百済対新羅の半島統一戦争に於いて、どうして倭国は、百済に肩入れし続けたのか?という疑問である。 これも、辰王の保護者が伯濟王だったのではなく、その逆で、辰王が遼の地から馬韓月支国に南遷して来た時に、貊族の伯濟は、むしろ辰王に保護される側;いわば外卿(客分)であったらしいと考えられるようになったのである。元々は同じ馬韓にあった;辰王傘下の伯濟=百済だから、辰王の末裔である大和王権は、百済を支援したのであろう、そして百済が滅亡後、旧馬韓の官民を大量に大倭国に受け入れたのもそういう古来の保護者意識があったからではないだろうかと考えられるようになったのである。 また、月支国の名称も、月氏の支国(枝国)の意味かと思っていたが、月辰国だった可能性も無しとは言えない。辰国は日辰・星辰・月辰の三辰を統合したものだが、馬韓にあったのは白馬族の信奉する月辰を標榜する国名だったのかも知れない。辰王自体は、辰国以来の三辰の王だったが、馬韓では月辰王というポジションでもあったのかも。 或いは、辰王(三辰王)が居たその直下にいる臣智が月辰王だという二重構造であったのか?(もしそうなら、辰韓には、星辰王に当たる臣智がいる事にならなければならない。それが伊西国の臣智だったのか?) This blog post is actually just a Google Doc! Create your own blog with Google Docs, in less than a minute. ここまでは、隣国三国志時代の卑弥呼ってどんな方?考察編 和多志は、主観ですが、以上の論文を残す側の方は、戦後レジーム時代の「氣→気」で表現している為、DS連中側の論文に見えてならないです。 以上 https://marishi.weblogs.jp/blog/2009/06/post-f415.html 「大井媛」という名だが、 箸墓古墳でヒミコ説がある娘のヤマトトトヒモモソヒメには「大市姫」という別名もある。 オオヤマトクニアレヒメ「大井媛」の娘が、 ヤマトトトヒモモソヒメ「大市姫」なので 三代目という順にもなりそうだが 順はともあれ「同じ血脈」ということは誰も否定しない。 さらに遡りクニアレヒメの母は? と見ると 「豊秋狭太媛(トヨアキサタヒメ)」とある。 「世襲足媛(ヨソタラシヒメ)」の別名もあるが、 「豊」は二代目の名前そのもの。 または海神の娘「豊玉姫」 「狭」とは狭井神社の「狭」 「太」「足」は「タタラ」の変化とも言われる。 ヤマトトトヒモモソヒメの別名、 「狭井神社」に祀られる「世夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)」からの造語の様にも見える。 「椎根津彦命(浦島太郎のモデル)」の娘か孫とも言われるが(出たよまた「おとぎ話」にされている関係者)この椎根津彦は「青亀(おうぎ)=青海亀」に乗って漂着し、神武の時にエシキを挟み撃ちにしたとされる。 つまり「海神」で、エシキを倒したのはヤタガラスの先鋒であるとも言われているから、つまりセヤダタラヒメの一族、ヤタガラスの眷属だ。 おまけにさらに椎根津彦を遡るとニギハヤヒの系列だという。つまりコノハナサクヤの子孫でもあり、海神大三島大山ツミの子孫だから「青亀」に乗ってやって来たという伝承がつけられたのだろう。 初版完売❗第2刷目を重版出来❗日本史の人物 Amazon1位、関裕二先生推薦 『少女神 ヤタガラスの娘』幻冬舎 https://www.amazon.co.jp/dp/434493797X/ref=cm_sw_r_cp_api_glt_i_99EVBHJCRBNR245B73MC 山陰神道継承者「表さんの考察編」 https://youtu.be/y9F3EvxXtyU?si=7C9H1gW-6F2pbZHK 📖正規ウラ本『少女神 ヤタガラスの娘』への旅と禁忌(タブー) 〜解明の足跡〜〈全220/カラー17ページ〉https://www.amazon.co.jp/gp/product/4802084943?fbclid=IwAR09tFjqwftjgQ_XQ_-r3nRT2J-b9Z0AtmiSjZI94JWrzemaPAtzaKop0vI 出雲口伝では、 ニギハヤヒとは徐福のことであると 記されています。 徐福は2度渡来しています。 最初に渡来したとき、 【天火明命】と名乗り、 大国主・八千矛王の娘 高照姫を娶り、 その子孫が海部氏となります。 徐福は、天皇殺害による追放「逃げたした」後、中華に戻り清皇帝「不老不死の味が見つかった」と再度資金と関係者諸々の出で立ちを許され… 二度目に渡来したとき、 九州に上陸し、 【ニギハヤヒ】と名乗り、 市杵島姫を娶って 生まれた子孫が 物部氏となります。 ニギハヤヒは 吉野ケ里を本拠地とします。 ちなみに、 出雲王国とは 西王家の神門臣家と 東王家の富家という 2つの王家がありました。 東王家・富家の 八重波津身(事代主)の 子どもたちが 母の実家・三島家とともに ヤマトへ進出し、 富家の分家【登美家】を創設し、 タタラ五十鈴姫の婿に 海(部)家の【海村雲】を 迎え入れて創建されたのが ヤマト政権だと伝えられています。 海村雲は 西王家の大国主のひ孫であり、 徐福の孫にあたります。 これが いわゆる欠史八代と言われる 【磯城王朝】であり、 そこへ九州から 2度の東征をし、 磯城王朝を倒すのが、 ニギハヤヒの子孫である 物部氏ということです。 ニギハヤヒと 天火明命は徐福ですから 海部氏と物部氏は 兄弟氏族と言うことになります。 これが 海幸(海部)と 山幸(物部)の神話として 描かれます。 徐福の子どもたちの 兄弟喧嘩です。 この兄弟を繋いでいるのが 登美家になります。 ヤマト政権の【母体】です。 縄文から続く 日本列島にいた諸部族を 代表しています。 天照国照 彦天火明→海部 櫛玉→クシヒカタ(登美) 饒速日尊→物部 和多志は、也のようにおもいます。 平城京から、追い出された民族愛知県名古屋市「㋩」なのだから、よろしいんじゃないのですか? 秦河勝の歴史と繫る八咫烏物部守屋系  これってヘイトですか? 訂正させて頂きます。 帰化人です。 この御名は ひとりの人物ではなく。 ヤマト政権の構成が 示されていると 思われます。其の 語り部として、山陰神道と表博耀氏について 表博耀氏と山陰神道 表博耀氏は、山陰神道を深く研究されている方として知られており、特に「縄文の世界を旅した初代スサノオ 九鬼文書と古代出雲王朝でわかる ハツクニシラス【裏/表】の仕組み」という著書は、山陰神道の深い理解に繋がる重要な一冊と言えます。 山陰神道とは 山陰神道は、日本の古代信仰である神道の中でも、特に出雲地方を中心に発展した神道の流れを指します。自然崇拝や祖先崇拝を基本とし、神々の力によって人々の生活が支えられているという考え方を特徴としています。 九鬼文書と古代出雲王朝 表氏の著書では、九鬼文書と呼ばれる古文書を解読し、古代出雲王朝の実態に迫る試みがされています。九鬼文書は、出雲地方の有力氏族であった九鬼氏の歴史を記した文書とされ、古代出雲王朝の政治や文化、そしてスサノオとの関わりについて貴重な情報が記されていると言われています。 ハツクニシラス【裏/表】の仕組み ハツクニシラスは、表氏が提唱する独自の概念で、古代日本の政治体制や思想体系を説明する鍵となるものです。この概念は、九鬼文書の解読を基に、古代出雲王朝が二つの側面を持つ政治体制を築いていたという仮説に基づいています。 著書の重要性 表氏の著書は、以下の点で重要です。 * 新たな視点: 九鬼文書という新たな史料に基づいて、従来の古代史観を覆すような新たな視点を提供しています。 * 深遠な思想: 山陰神道の思想体系を深く掘り下げ、古代日本人の世界観を解き明かそうとする試みです。 * 出雲地方の歴史解明: 出雲地方の歴史を体系的に研究し、その独自性を明らかにしています。 イメージ (九鬼文書のイメージ。実際にどのような文書かは、現存する資料や研究によって異なります。) (出雲大社は、出雲地方の中心的な神社であり、山陰神道の聖地の一つです。) 注意点 表氏の著書は、学術的な検証が十分に行われていない部分もあり、その内容については様々な意見があります。このため、著書の内容を鵜呑みにするのではなく、他の研究成果と比較しながら、批判的に読み解くことが重要です。 まとめ 表博耀氏の「縄文の世界を旅した初代スサノオ 九鬼文書と古代出雲王朝でわかる ハツクニシラス【裏/表】の仕組み」は、山陰神道、特に古代出雲王朝の実態を探る上で非常に興味深い一冊です。しかし、その内容については、より多くの研究と検証が必要とされています。 この情報を参考に、より深い研究を進めてみてはいかがでしょうか。 もし、このテーマについて、さらに詳しい情報が必要な場合は、お気軽にご質問ください。 * 九鬼文書についてもっと詳しく知りたい * 山陰神道の他の研究者について知りたい * 古代出雲王朝についてもっと詳しく知りたい など、ご希望に応じてお答えします。

2024/08/25
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森島 リエ
春馬君の作品 DVDになってない バラエティとか観たいです。

2024/08/20
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今藤美穂
お世話様です。 春馬さんの死に関してはいまだに納得がいきません。 おっしゃる通り、自死ではない可能性があるにも関わらず、再捜査をしてもらえてませんし、所属事務所からすれば、稼ぎ頭の看板俳優なのに、お別れの会もないままです。 ものすごく心が痛いです。 皆さんの思いが届くことを祈っています。 ありがとうございました。

2024/08/11
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千葉 美和子
そうなる事を切に願っています。 応援しています。

2024/08/11
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三浦留美
とても大切な存在を失いました 彼の素晴らしさを世の中の沢山の方に知る機会を作って頂きたい! 本来なら所属事務所でやるべきと思いますが…家族と言いながら放置に等しい ならばファンが繋いで行こうではありませんか!

2024/08/08
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吉松みさき
真実が全貌になるべきである 闇に葬られておかしすぎる

2024/08/08
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山内美枝
春馬くんのすべての作品が 地上波で放映され 未来に必ず残されていくこと 一番の供養だと思います。日本の宝なのだから..人としても俳優としても!頑張りましょう!

2024/08/06
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湯川 知佳
三浦春馬様の様々なる作品を見せて戴きたいです。 彼は、 本当に努力家を超えた努力家でした。 様々な作品から、いつも学ばせて頂いてました。

2024/08/05
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栃木満喜代
春馬くんの作品をたくさんの方に観て欲しいです。

2024/08/03
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杉山しづの
あの日から春馬くんを忘れた事はありません。 あの日から世界の、日本の闇を知りました。 春馬くんは自ら命を断つ事は絶対にありません。真実が必ず明らかになる日が来ると信じています。

2024/08/02
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田村由美子
春馬さんが亡くなってから地上波で一度も春馬さんの歌う姿を観れていません。 是非とも素晴らしい春馬さんの歌やダンスを地上波で放送してください。

2024/08/02
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タカハシルミコ
三浦春馬さんの尊厳と名誉を回復したいです。これからも戦い続けて行きます。

2024/08/02
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近藤由美
活動をして下さることに感謝します。あれから1日たりとも春馬くんを忘れた日はありません。 悪い事をした人間がのうのうと暮らしていて 春馬くんのような方がなぜ、亡くならないといけなかったのかと、ずっと思っています。 彼が残してくれた作品は、彼の努力の賜物です。地上波で放送をして欲しいです。ずっとこれからも、みんなの心の中で彼が生き続けてくれるように。よろしくお願いします

2024/08/02
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金井真紀子
本当に…私も春馬君は自◯したのでは無いと思っている1人です。◯人に口無しですから…本当の事が明らかにされる日が来て欲しいと心から願いつつ… ある日何処かで…と思ったり…本当はマイケルジャクソンさんの様に何処かでひっそりと暮らしていたらいいな…と願っています。 せめて自◯では無かった事が報道されて地上波で春馬君の姿を放送して頂く日を望んでいます!!皆様の想いがどうか届きますように!…

2024/08/01
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川崎純子
同じ茨城県出身です。 いつまでも春馬くんを忘れないで欲しいです。

2024/08/01
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力石房子
地上波で春馬くんを見たい

2024/08/01
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井上美代子
春馬くんの作品、地上波で見たいです。生きてきた証の作品を大切にしてあげたい❤️

2024/08/01
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陣野原 惠子
こんにちは 私も春馬君の沢山の作品をこれからも多くの人々に見て欲しい! 遺書が無いのに自死との判断は⁈ 不審死とすべきだと思います。

2024/08/01
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磯山 貴代美
追悼番組すら無かったので、ぜひとも春馬さんのドラマ、映画、舞台、歌唱を地上波でみたいです!

2024/08/01
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澤田 はる
春馬君の不審な死を通して、テレビ・新聞などの報道のおかしさに気がつきました。 全国で再捜査お願いデモや署名活動をしてくださってありがとうございます。 彼の無念が晴れますよう願っております。

2024/07/31
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佐藤真紀
春馬さんは不審死です。 私の人生をかけて、必ず闇を暴きます。

2024/07/31
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スポンホルツ トモ子
三浦春馬さんのについては全然存じ上げませんが、言論の自由が制限されているこの馬鹿げた時代に少しでも何かが非常識でおかしいと思い、せめて応援メッセージを送らせていただきます。 海外から応援しております。

2024/07/31
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西村孝子
三浦春馬君の死については当初から、ずっと関心を持ち情報を取っていました。DVDも、ほとんど買いました。竹内結子さんや芦名星さん等の死とも関連していると思っています。闇の側の都合の悪い情報を知ってしまったのが原因で消されたと思っています。再調査をしてもらいたいです!

2024/07/31
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門脇理恵
三浦春馬さんのお人柄が好きでした!後から知ったのですが、春馬さんの活動も素晴らしかったと記憶にあります。ぜひ、訂正して報道してもらいたいです!

2024/07/31
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喜多政代
春馬君を忘れない

2024/07/31
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福井美絵
素敵な活動ありがとうございます 春馬くんのためにも是非、よろしくお願いします

2024/07/31
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上原千昌
まだ三浦春馬さんがいなくなった事が受け容れられずにいます。何故か彼の話が出ると不穏な雰囲気になってしまう。地上波で彼の活躍を見たいです。

2024/07/30
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菊地恵美子
子役の頃からずっと頑張って沢山の素晴らしい作品を残してくれています。沢山の方々の視聴がかないますようにお願いします。

2024/07/29
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川西智子
応援しています

2024/07/28
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青木典子
ずっとずっと観ていたい💕 ずっとずっと応援しています。

2024/07/28
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中川 千文
私も春馬さんの自死報道に納得していません。静岡の仲間たちと「春馬さんの不審死再捜査」を求めてチラシ配りをしています。 春馬さんの尊厳をとりもどし、彼の作品や歌が地上波で多くの人に見てもらえることを望みます。

2024/07/28
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クリハヤスコ
私も同感です。三浦春馬さんは責任感、プロ意識、仕事を途中で投げだす人ではないと強く感じていたのでこの違和感を払拭したいですし、彼の作品を改めてみたいです。

2024/07/27
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有地 郁恵
三浦春馬さんの歌やドラマや舞台を地上波で見たいです。 よろしくお願いします。

2024/07/27
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伊藤順子
真実を知る事の出来る世の中が訪れる事を、願います。

2024/07/26
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リディア・リャジディ
この動きによって、三浦春馬が自殺したのではないという真実がついに明らかになることを期待しよう 🤞 春馬の尊厳を決して諦めないで 💪✊

2024/07/26
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齋藤幸絵
三浦春馬さんは自死ではない。

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